のっぱら体験記 《飯田市Mさん》

2016/09/09

◆自然保育を体験しようと思うまで
「自然保育」という言葉は、木下さんとお知り合いになって初めて知りました。
その時は「自然食品とかの保育版?毎日がピクニック?野原が子供たちの笑いであふれ、ハイジの世界みたいな感じの保育かな?」という印象でした。
しかし理念は「子供を信じて待つ保育」。子供の生きる力を引き出すために自然の中で保育を行っているのであって、レジャーとしての自然とは全然違うとのことでした。
正直、まったく想像できませんでした。自然とのふれあいが楽しいから外で保育してるのではない??一体どんな保育なのか。
実は、私の息子は未満児保育の頃から少しおかしいと言われ療育に通い、4歳ごろに自閉症スペクトラムと診断されました。現在年長さんで支援学級に進学するかどうか判断をしているところです。
なんとなくですが、息子にはのっぱらさんの理念があっているような気がしました。
自由で言う事を聞けない息子ですが、その行動にはいつも理由があり、自分自身で考える生きる力にあふれていると感じていました。
「息子の生きる力を試すためにも、いちど体験をしてみよう!」そう決めました。
体験するからにはのっぱらさんの理念「子供を信じて待つ保育」を信じ、のっぱらさんを信じて待つよう、息子がどうなろうとひと言も口を出さないと決めてのぞみました。

◆いよいよ体験
いよいよ体験の日。台風が心配でしたがなんとか晴れました。
息子を起こしたのですがいつものように、うだうだなにか言い訳をしながらゴロゴロ転がっています。無理やり引きずり、急かして、のっぱらさんへ。
叱るのは毎朝のことですが、しんどいです…。

園舎に行った息子はすぐにお友達に「いれて!」と言って駆け寄っていき、返事を待たずおもちゃを使い始めました。子供たちは「誰?!」とビックリ。
それでもなんとなく一緒にあそんだり、おもちゃを巡って小競り合いをしたりして溶け込んでいました。
(息子は人との距離の取り方が分からず、だれにでも馴れ馴れしく突進していきます。それが自閉症スペクトラムと診断された一番の要因です)

最初の驚きは朝の会です。先生が号令をかけるわけでもなく、空気を読んでこどもたちが自然に集まりしずかに座ります。普段、落ち着きがなく話を聞かないはずの息子も空気を読んで一緒に座りました。
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それから自然と始まる保育士さんによる絵本の朗読。息子は立ち歩いたりおもちゃで遊んだりしていましたが、園児さんも保育士さんも自分の邪魔になるときだけ「見えないから座って」とお願いするという感じでした。
絵本が終わった時「ところであなたはだれ?」と息子に話が。「急に来たけど名前もなにもわからないんだけど。」
・・・正直、この時点では、私は「これは子供には残酷な対応だ」と感じました。
「普通、今日体験の息子くんでーす!仲良くしてね!」と大人が紹介してあげるんじゃないの?と。
しかし息子はつたないながらも自己紹介をし、伝わらないもどかしさにもがきくるしみながらも、自分の好きな体操を紹介してみんなで一緒にやったりしていました。
私は「ああ、これがのっぱらなんだ…」と感じ始めました。

◆のっぱらは裁かない
朝の会が終わって喬木村のフィールドに移動。山中の古い田んぼを利用したスペースで、野の山よりは整備されていますが、公園程人の手が入ってない場所です。
駐車場に到着してすぐにフィールドへ向けて出発…と思いきや、みんなで円になって世間話。
この時点で私には衝撃でした。毎日分刻みで働く私には「なにこの無駄な時間は…」と感じました。しかし、これがのっぱらさんのペースで、子供の事を考えたペースなのだとおもいました。フィールドに早く着く事が目的ではないんだと。imgp5362

私の時間感覚では「やっと」フィールドに向けて歩き出したのっぱらさんたち。
しかし歩き出して20メートルの時点で息子がもめごとをおこします。
同い年(年長さん)のB君が拾った烏の羽をよこせと強要。当然Bくんは嫌がり泣いて羽根をリュックにしまいます。
「ああ、息子が悪いな。きっと今日一日悪者扱いされて大変だろうな」と私はげんなり。もう帰ろうかと思いました。
案の定、子供たちがわらわら集まってきて、保育士さんもやってきました。
しかし、私の予想に反しだれも息子を責めません。それどころかBくんに「泣いてないで今の気持ちをいいなよ」と促します。

一方、息子は人の気持ちを考えないところがあり、人からよく見られたいという欲求が少ないためストレートに
「僕はこれがほしい。ちょーだい。触らせて。」と口に出して主張。
なんとその行為がのっぱらさんでは当然のことで、「息子くんはちゃんと泣かないで言葉にして気持ちを伝えてくれたよ。Bくんは自分の気持ち言ってないよね。言った方がいいんじゃない?」と、Bくんの方が諭されているのです。

ビックリしました。
「のっぱらさんは裁かないんだ」と、衝撃をうけました。
さらに息子は持論を展開します。「欲しい人にものをあげるのはいい事なんだよ。僕が欲しいといってるんだから、あげるのがいいこと。それがなんでできないの??」
ジャイアン!!!息子はジャイアンだったのです。
それでもそれを聞いたみんなは「悪い奴だ!間違ってる!」とはいいません。
「ふーん・・・だって。Bくん、どう?」とあくまでBくんの意見をうながします。
あまりのことにBくんは返す言葉もなく泣くだけです。
息子もそんなBくんに対し複雑な感情があるようで、まわりをうろうろしたり、小枝やはっぱを投げつけたり、のしかかったり、微妙な距離で体育座りしたり…。
Bくんに対して「おまえ何か言えよ!!」と体全体で言っているように見えました。

息子はBくんの事が本当は好きなんだなと感じました。羽根がほしいだけの感情ではなく、「羽根をくれない=僕のことをきらい?」というような不安、Bくんが自分を好きだという証が欲しいのかな…と感じました。(本当に羽根が欲しいだけなら、息子はリュックをこじ開けて強奪すると思いました。)
どうしていいか分からない息子はBくんのコップを奪い取って落ち葉に埋めました。
まわりのお友達はコップのまわりにスタンバイ。無言ですが、息子の行為を咎めることなくつらい気持ちに寄り添い、「コップは僕らがまもるからね」といわんばかりに、Bくんのつらい気持ちにも寄り添ってくれているのです。
そんなあたたかい見守りに、ついに息子は折れて「今日はここまでにしておいてやるか」と新喜劇のチンピラのような捨て台詞をはいてその場を離れてしまいました。

それで終わりです。

◆裁かないから理解しあえる
追いかけて謝らせるとか、Bくんが被害者で息子が加害者だとか、息子の主張は反社会的だとか、そういうことは一切ありませんでした。
これがのっぱらさんなんだなと、わたしは心底理解しました。

大人が「この子が悪い」と裁いてしまうことは、いじめにつながる。漠然とですがそう感じました。
こっちが悪いと決めて謝らせる。それは大人がすっきりする解決方法であって、必ずしも当の子供たちが納得する解決ではないのかもしれません。
互いの理由を聞いて理解する。それもまた解決なんだと感じました。

一連のやりとりは息子もですが、私も大変つらかったです。逃げ出したい気持ちになりました。もういいじゃないかと。大人が仲裁に入ってしまえばいいとすら思いました。
しかし、終えてみると絶対に必要なもめごとでした。もめごとを防がない、裁かないということは、子供も大人も修業に近いと感じました。
見守る大人もとことん向き合う、見守る、コントロールしないぞ!という一種の覚悟が必要です。

その後も息子はもめごとを起こしましたが、だんだん相互理解までがスムーズになっていきました。
・息子が友達の枝を取り上げて捨てる→ウルシは危ないから触ってはいけないといわれたのに枝で触ったから、枝がバイキンだらけになったと思ったので捨てた
・息子は他の子の枝もとりあげようとした→本人がこれは安全な枝だと説明→息子「そうだったんだ。ごめんね」
といった具合です。
そして息子はBくんとすっかり仲良しに。信頼関係のようなものを感じました。
最初にとことん揉めておいて本当によかったとおもいました。
(もめているところの写真、撮り忘れました。見守る私も必死だったんだと思います。)

◆褒めない・叱らない。認める保育。
もうひとつおどろいたことは、保育士さんは叱らない代わりに褒めることもしません。
良い・悪いは子供たちの中にあることで、大人がそれを裁かないということは、悪いことをだけでなく、良い事を提示することもできないんだなと気が付かされました。
これは既存の親という枠組みのなかで子供に接している身としては「え!じゃあ、どう接したらいいの?話す事なくなっちゃうよ!」と感じました。
しかし、子供を尊重し同じ目線になれば、叱るのではなく、理由を聞いて一緒に考える・理解や解説策を考えるよう促す、褒めるのではなく、一緒によろこぶ、感謝を伝える認めるなど、できることはたくさんあるのです。
でも、保育士さんも子供たちがだいすきで、心のなかでは「○○くんはやさしいねえ!すごい!!かわいい!!」とべた褒めして抱きしめたい気持ちをぐっとこらえて接しているんだろうなあと感じました。
そして、子供たちもそれをわかっているんだろうなと子供たちの笑顔を見て感じました。
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◆自分で居場所をつくった息子
お昼を食べるころにはすっかりおちついて、空気を読んでお弁当を出し、片づけもちゃんと行った息子。
そのあとは個人個人で考えて遊びをはじめました。その顔は至って真剣。まるで仕事をしているかのようです。遊びの時間の時も「今から遊びの時間でーす」などの号令はなく自然にはじまりました。
息子はどこからかトンカチを調達してきて「僕は修理をする仕事をすることにしたよ!椅子が転んだりしたら起こす仕事もしてる!」と自慢げに話してくれました。
すると他の子がくるみを割る仕事を依頼してくれて、一生懸命工夫しながら割ろうとしていました。
息子は言われたことを守ることは苦手ですが、初めての場所でも、まわりを見て自分から仕事を見つけたりすることはできるんだと感激しました。
きっと社会にでてから役に立つ力だと嬉しく思いました。
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◆親自身がどう育てられてきたか
こどもたちが遊んでいる間、木下さんといろいろお話しすることができました。
私の母は「親とはこうあるべき、子供はこうあるべき」という信念がしっかりあり、
細かい事までこだわり、生真面目で厳しく、自称正義感がつよい母でした。
私はそれが苦痛で苦痛でしかたありませんでした。

毎日大きな声で「なんでこんなことするの!常識で考えればわるだろう!とにかくダメ!!!」と怒鳴られて、
納得いかないのに飲み込むしかない日々。母の思うよう育つことができない自分を責め、反抗し、苦しみました。

だから息子には同じ思いをさせたくないと模索していると木下さんに伝えました。
木下さんも同じ経験があり、共感をしてくれました。

今、子育てをしている世代は「子供をコントロールできる親=優秀な親」「親や先生のいうことを聞く子供=優秀な子供」という教育環境の中で育ってきた人がほとんどだと思います。
子供のおぜん立てをするのがいい親、スーパーなどでだだをこねる子供を怒鳴るのがいい親。怒らない親は放任で世間に迷惑をかけるダメな親。しつけをしっかりしておとなしい子供にするのがいい親…そんな世間の目を第一に考えて子育てをしている親御さんが多いと感じます。

「こんなに苦労してやってるのに!だれのためだと思ってるの!!いろいろお膳立てしてあげたんだから失敗したら許さないわよ!恥をかかせないで!世間様になんていわれるか!!」
そんな風潮の中、親のメンツや思い込みの中で抑圧されて育った世代が大人なり、抑圧された子供時代が心の傷として苦しんでいる人が多いと感じることをお話ししました。

毒親とかアダルトチルドレンなどの言葉も最近とりざたされています。
「私の親は私のためといっていろいろしてくれたが、その実は私を信じていないからいろいろしなくてはいられなかったんじゃないか」とお話ししたとき、はっと気が付きました。
朝の会で「あなたはだれ?」と言われた息子に対して「かわいそう。普通大人が紹介してあげるのに!冷たい!」と思った私は、息子を信じていなかったのだと。
「自己紹介なんか出来るわけない」と決めつけていたのです。
これが悪化すると「自立してしまうのは寂しい。なにもできない子供でいて欲しい」という、子供を縛る毒親になってしまうのではと感じました。
「いい母親ではなく、幸せなお母さんになりましょう!」・・・木下さんの言葉にとても救われました。

◆子供は自分で育つもの
1日体験をして、のっぱらは「生きるための人間サバイバル保育」だと感じました。
無人島で生きるためのサバイバルという意味ではなく、人間社会で生きるためのサバイバルです。(もちろん自然のなかでこれは危ない植物だ、などの実技としてのサバイバルも学んでいました。)競争で人を蹴落とすのではなく、人を認め尊重しつつ、自分の意思をしっかりもち主張する人間を育てるサバイバル保育。そう感じました。

私が当初イメージしていた「ピクニックみたいな保育」は、まるでペットを自然いっぱいのドックランで遊ばせるような感覚だったと感じます。
とにかく「自然で保育っていいよねー耳障りいいよねー。今っぽいよねー!では、やりましょう!こどもに体験させてあげましょう!」ということで大人がおぜん立てしてあげる。そして子供が自分のおぜん立てを突破したり思い通りにならないと怒ってしつける。そんな自然保育とは全く違うと思いました。

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体験した日の夜。お風呂に入った後息子に、「お風呂の栓を抜いて」とお願いしました。
すると息子は「ママがお湯をいれたのだから、最後もママが片づけるほうがいいんじゃない?自分の役割をきちんとやるのがみんなの幸せになるんだよ」と言われました。
今までは「栓を抜いて」と言われれば無邪気にそうしていた息子でしたが、自分の頭で考えられるようになったのです。

普通は反抗期で「やだ!!」というところでしょう。
それをなぜやりたくないのかきちんと説明してくれたのです。
息子は栓を抜くのが嫌だったわけではないのです。そして私がほんとうに困ってお願いしているわけではないのをわかって「ママがやるべき」と言ったのだとおもいます。

次の日の朝。起こされた息子は言いわけせず、スッと起きました。
「僕は自分の意思で起きた」という顔つきでした。おもちゃも持たず、さっさと前を向いて玄関を出る息子をすごくたのもしく感じました。
たった1日でこんなに変わるのか…大変驚いた朝でした。

ただ、いまだに「烏のはねほしかったなー」と言っています(笑)
これから一緒にどうしようか考えたいと思います。